他人の幸せ
私は自分の高校が好きだった。
その高校の卒業式で、8クラスあったクラスの代表ひとりひとりが壇上にあがって
好きな話をした。
原稿もなく、形式ばらず、それぞれに思いを込めた話をした。
「うちの学年は毎年雨で体育祭ができなかった。皆さん、体育祭、やりましょう!」とか。
素敵な話がたくさんあった。
その中で私は、私のクラスの男の子がした話を、
ずうっと胸に留めて、折にふれ自分の行いを確かめている。
こんな話だった。
「俺はさ、たとえば俺の幸せを自分のことのように一緒になって喜んでくれる
奴がホントの友達だと思うんだよね。
さっきさ、PTA会長のおばちゃんがさ、悲しい時に一緒にいてくれる友達、って話したけどさ、
そういう奴ならけっこういると思うんだよね。
でもさ、自分が幸せじゃなくてもさ、相手の幸せを喜べる奴ってあんまりいないんだよね。」
私は、彼のその話に深く感じ入り、そして2年間同じクラスにいて
自分勝手な奴、と敬遠していた彼を、高校生活最後の日に深く尊敬した。
「相手の幸せを喜べるか」
それが試される日はすぐにやってきた。
卒業式から数日経って、国立大学の最後の合格発表(後期日程入試分)が終った次の日、
私は一人の友人と高校の校門で待ち合わせ、一緒に担任へ結果報告をすることにしていた。
別々の大学を受験していたものの、互いに一次センター試験の成績が悪く、
ほぼ合格の可能性はない、と話していた私達だった。
私は予定通り不合格で待ち合わせにむかい、先についていた彼女に開口一番、こう言われた。
「ごめんね、私、受かったの」
私はすぐに「わあ、おめでとう」と言った。
すぐに言ったと、笑顔で言ったと思う。
しかし、その瞬間の自分の表情を、口調を、20年近く経った今もトレースするように思い起こす。
その瞬間、私の心は彼女の合格を祝っただろうか。
妬みは、ひがみは、入らなかっただろうか、と。
先週の水曜日、私が週に一度カウンセリングを受けている臨床心理士から、
妊娠していること、来年1月から産休に入ることを告げられた。
私は笑顔で「わあ、おめでとうございます」と言った。
そうしてしばらく具体的な引き継ぎの話などをした後で、私は彼女に尋ねた。
「私、最初この話を聞いた瞬間、どんな顔をしましたか?」
すると彼女は、
「もっとびっくりされるかと思ったけれど、すぐとてもにっこりしてくださったから・・・」と答えた。
よかった、私、ちゃんとできた。
そう思った。
彼女とのカウンセリングは3年半続けている。カウンセラーが交替になることは
クライアントである私にとって大きな衝撃だ。
そして、彼女には既に6歳になる娘がいる。
私は高校の卒業式の話をした。そして、言った。
「私、かなうことなら、健康で、私の娘にきょうだいをつくりたかった。」
「だから、うらやましいから、どうか母子とも無事に、健康で出産なさってください。」
他人の悲しみをかなしむのは、自分の悲しみを思い出したり、想像したり、同調させるからだ。
自分には得られない、得られなかった喜び、幸せを他者が得たとき、それを喜ぶことができるだろうか。
うらやましい感情が湧くのは当然だ。人間だもの。
ただ、最初の一瞬だけでいい、妬ましさよりも喜びを表すことができるようでありたい。
「本当の友達」の話を肝に命じながら。
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