灰谷健次郎「少女の器」

1992.3.新潮文庫

絣という「繊細でタフ」な少女の14歳から17歳くらいを描いています。 彼女に惹かれる人は多いのではないでしょうか。 「こんな子だったら」と。

1895年から1989年にかけて五編の短編として小説新潮に掲載されたもので、 「この作品は息の長い作品といえば、そうもいえるし、一つの作品にこれほどに時間をかけなければ成らなかったわが非才の証ともいえて、胸中はなはだ複雑だ。」とあとがきにのべられています。

時間がかかっているからでしょうか、 読み終わって、振り返ってはじめて主人公絣(かすり)の成長に驚きました。 少しづつ成長していく花を毎日見ていて、1日1日の変化はわからないようなのにいつのまにかこんなに立派になって、と驚くような気持ちです。

絣は頭のいい人なんですね。テストでいい点が取れる、という意味ではなしに人生において賢い人。物事を自分の目で見ようとする、澄んだ目を持っている人。

私はそういった澄んだ目を持った絣が大人の優しさを身につけようとする物語だと思いました。

「子供は残酷だ」といいます。子供は目が澄んでいて、澄んだ目で捉えたものを遠慮なく直接表現したりするあたりが、残酷なのでしょうか。「王様は裸じゃないか」といった子供のように。

大人になるにつれて澄んだ目を保つ人は少なくなっていきます。いやなもの、面倒なものから目をそらすことを覚えて、見ようと思うことすらしなくなって。使われなくなった目はだんだんと曇っていくのでしょうか。

澄んだ目を持ちつづけて生きていくことは難しいし、そして私は澄んだ目をもって大人になるためには優しさが必要だと思っています。

子供のような澄んだ目を持っているだけでは、正しいかもしれないけれどそれだけの人だから。
「王様は裸だ」というだけのことなら澄んだ目でできる。でも、成熟した大人ならそこでもう一つ、思いやりとかそういう物を持つこともできる。 それは自分のプライドを守るために王様が裸だということを認めないこととは違うのです。

うまく言えません。

でも、第4章、絣が父の別れた恋人の章子さんと会って感じた後味の悪さと、
そして上野君が絣にいったことはそういうことだと思うのです。


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Last modified: Mon Jul 27 14:33:40 JST 1998