「坂の上の雲」司馬遼太郎
3人の主人公、正岡子規、秋山真之、秋山好古。
私自身が誰と重なるかと考えたならば、真之だと思う。
文芸に未練を持ちつつも、自分の置かれた場所、海軍において全力を尽くす。
「自分のやりたいこと」と「自分のやれること」が一致しない哀しさを抱えながら。
物事を大枠でざっと捉えて、必要なことだけを抽出する考え方も似ている。
こういう人間は、こつこつと地味な作業を重ねることが必要な研究者には向かない。
正岡子規の俳歌研究のような作業は決して出来ない。わたしも、そうだ。
明治維新直後、国家が小さかった時代。
人間一人一人が、自分の力が直接に国家に響くことを信じ、またそのとおりだった時代。
国家はひとつの組織であるけれども、それをある機械にたとえ、人間が歯車だとするならば、
その一つ一つの歯車が相対的に大きかった。歯車たちは、自分が全体をどう動かしているのか容易に知ることが出来た。そんな時代。
現代、通勤列車に詰め込まれて運ばれる私たちは、自分の働きがこの世にとって何であるのか、感じられずにいる。
人間一人一人の価値が小さくなったのだろうか?
相対する国家が完成されてしまって、ひとりの力が響くには堅固に過ぎるからか?
いや、国家のために働いていると感じている人は少ないだろう。
もはや国家、ではなく、世界が私たちの動かす対象なのだろうか?そしてそれが大きすぎるから、
自分の価値が見出せないのだろうか?
自分ひとり何をしても何も変わらない、そんな無力感。
世界はあまりに複雑で、混沌としていて、自分の力がどう響くかなんて、わかりはしない。
戦争の形。
この作品で描かれた日露戦争以後、戦争は形を変える。
大量殺戮兵器の本格的な出現をみて、蟻のように兵士が死んでゆく。第一次世界大戦。
そして、飛行機による空爆の実施。1932年におけるゲルニカの無差別空爆。
これによって戦争は「軍隊」が行うだけのものではなくなり、軍人であろうとなかろうと戦争の犠牲になる。
日本においては太平洋戦争における沖縄、空襲にあったたくさんの街、広島、長崎。
(これらの土地で死んだ民間人が戦死、でないとはどういうことだろう。「名誉の戦死」とすら呼ばれないのだ)
いまこの世界で行われている戦争、アフガニスタン、ソマリア・・・・
この戦争で奪われる一人一人の命は、何のために消費されるのか?
死んでゆく一人一人は、何のために自分が死ぬのかわかるだろうか?
日露戦争においては、戦わなければ日本が獲られるから、そう思うことが出来た。
そのために軍人は命をかけて、旅順を陥とす、奉天を陥とす、バルチック艦隊を撃滅する、そう思うことが出来た。
そんなわかりやすかった時代を、懐かしくすら思う。
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