新潮社・新潮文庫
大友宗麟の物語です。
彼は戦国時代の九州、豊後国主でありました。
戦国時代、多くの武将が激しくしのぎを削ったこの時代は
日本にキリスト教の布教が広くはじめられた時代でもありました。
大友宗麟は国主として多くの布教者に出会い、キリストに出会いました。
大友宗麟は自分の弱さに気づいた人なのだとおもいます。
私は思うのだけれど、人間は皆弱い。
でも、どのくらい自分の弱さを知っているかは、人により差がある。
弱さに敏感な人、内省する人が自分の弱さに直面する。
そして自分の弱さにぶつかって倒れる人と、倒れずに弱さを抱えてゆける人とがいる。
自分は弱いのだと、そう認めるとイエスが見えてくるような気がします。
そして自分は弱いのだと知った人が驚くほど強く生きることがある。
それをある人は神の力というのでしょう。
この「王の挽歌」に描かれた大友宗麟の人生はまるで神の働きを表しているかのよう。
「何か大きな力」によって宗麟はフランシスコ・ザビエルと出会い、時を経て神を信じ、死んだ。
その「何か大きな力」を神と呼ぶのだろうか。
神は何もしない。
「沈黙」を読むとそう思う。
神がいい様に計らってくれると信じるには
世界はあまりにも苦しく、醜い。
それなのに、宗麟は神を信じたのだという。
神はこんなにも何もしないようでいて、それとも何かの働きをなすのか。
神はいるのか。(99.4.19)