2000.2.初版.新潮社
「地震のあとで」と銘打たれた6編の連作小説です。
「スプートニクの恋人」以来村上春樹の小説から私が感じるのは、失ってしまうことだけを書くのではなく、失ってしまったように思われながらも失っていないこと、変っていない部分、または再獲得のようなものです。
スプートニクではすみれが戻ってくること。
この「神の子供たちはみな踊る」の「アイロンのある風景」、 三宅と順子は二人焚き火を見つめながら焚火が消えたら一緒に死にましょうといい、順子が眠りに落ちて物語りは途切れます。
焚き火が消えて順子が目覚めても、きっと二人は死なない。死を望みながらも、いき続ける。だって
「焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める。」
それは体が生き続けるための動作だから。「いやでも」自分はもう生きたくなくても、体は生きつづけようとする。それは受け容れ難いことだけれど、どうしようもない現実だ。
体が生きつづける限り、私は生きなくてはならない。おそらく自殺することすら私の意思ではなく、体の命令に過ぎない。