1954年新潮文庫
明治時代後期の長野県が主な舞台。小学校の教師をする瀬川丑松という青年は、被差別部落出身であることを隠して生きてきました。 丑松は父から「隠せ」と堅く戒められていたのです。 しかし彼は部落出身の思想家、猪子蓮太郎の影響を受け、思い悩んだ末に 自ら「私は穢多です」と告白するのです。 丑松が、一生ヱタであることを必死に隠していきるのか、 それとも告白して堂々と差別に向かうのかと自分の生き方に悩む姿が全編に描かれています。
私は実際に部落差別を目の当たりにしたことはありません。 部落の出身だという人に出会ったこともないし、どこが被差別地域であるのかも知りません。 でも、世の中にはそうやって差別を受けている人がいたこと、いることは知っています。 そして差別について想像し、考えることができます。
私は人を差別します。
学歴や性別、容姿、能力によって他者を差別して優越感を得ることがあります。
醜い感情だと思いますが、あるのだから認めましょう。
この差別という感情がもっとも醜くなるのは,その差別の根拠が自分の判断でない時です。 世間の通念によって人が人を差別するとき、差別はもっとも醜く、差別されるものにとって負担となり、社会問題になりうるのです。 部落差別はその社会問題のひとつです。特殊部落という封建時代に作られた差別階級、時代が変わっても世間によって差別されてきたものに個人が依存して、人を差別することに問題があるのでしょう。
個人がその個人の価値観で人を差別すること、それは個人的問題です。 「差別」は社会的問題、社会における個人の問題です。 「差別」をするとき人が醜いのはそれが自分の頭で考えたことではなくて、社会の通念を鵜呑みにすることから起こるからです。まるで「社会」という虎の威を借る狐のようです。
そして私は、「社会」の威を借る狐の一匹です。
私は考えました。私の友人について、誰かが「あの人は部落の人だから」などといっているのを聞いたら、私はどう反応するでしょうか。聞いてはいけないことを聞いてしまったように思うかもしれません。 「あの人は中卒だから」とかそういった学歴差別を、私は自ら口に出さないだけで、心の中でしているのです。
ああ、自分の醜さに直面して苦しくなってしまいました。 (98.8.30)