1990年. 新潮文庫
短編集です。「トマトの話」「眉墨」「力」「五千回の生死」「アルコール兄弟」「復讐」「バケツの底」「紫頭巾」「昆明・円通寺街」の9編。
どれもが心のやわらかい部分に食い込む鋭さといつまでも心に残る重さを持った物語です。私の心にいちばん重く残るのは「トマトの話」でしょうか。 会社の昼休みに男が語った、学生時代のアルバイトの思い出話でした。
9つの短編の多くは、過去の記憶として物語られます。
過去の記憶をたどるとき、どうして覚えているのだろうと思うことがよくあります。記憶に残る事柄と、そうでない事柄には一体どんな違いがあるのでしょうか。
私は、顔もよく思い出せない人の、一瞬の表情だけを覚えています。どんな顔をしていたか思い浮かべられないのに、表情だけ。かつて大好きだったあの人は、私の中にそんな記憶を残していることを知っているのでしょうか。
なのに、大事にしておきたかった記憶は薄れてしまう。当時はあんなにショックで、もう立ち直れないかと思ったようなことすら、今は忘れていることに気づいて、愕然とする。
記憶は薄れて、拡散するように消えていくものなのでしょうか。それとも、本当に大事な核のような物は、残るのでしょうか。(98.11.27)